昭和46年5月28日 朝の御理解


 御理解第26節「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬる         にも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心な         り。」

 「信心に連れはいらん」と。どういう、大変難解な御理解だと思いますね。大変難しい。「信心に連れはいらぬ。一人信心せよ。信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが」と。★今朝、ご祈念(?)けれども、お不動様ですね、右手に(?)を持つ、左手に縄かなんかを持っておられますよね、それこそ、形相すさまじいまでの仏様です。後ろには真っ赤な炎が燃えております。不動様の像です。その不動様のお姿なのですけれども、後ろに火がない、炎がない。そんな後ろ姿を頂く。どういう意味の事であろうかと。それで今日この26節とどのような関係があるか分かりませんけれども、今日頂くのは26節です。
 だから、「信心に連れは要らぬ一人信心をせよ」という時には、私はこの、自分がまた、燃えておる時、これはもう(?)信心に炎が燃え盛っておる時、誰が何と言うてもと言う時、それこそ、矢でも鉄砲でも持ってこいと言うような時、そういう時の状態ではなかろうかと言う風にまあ私は思うのです。ね。まあ、熱烈な信心とでも申しましょうかね、そういう熱烈なまでの信心がなされる時、私は初めて不動の信念というものが培われるのだと思うのですね。
 ですから私共が(?)思いますのはどんな時でもこれから先どのような事が起こって来てもも驚かんで済むような信心。不動のもの。と同時にこれは信心の、宗教の眼目でもあろうと思われる、安心、仏教の言葉で言うと、安心立命、ね、安心のおかげとでも申しましょう。安心のおかげと不動の信念というものを別々に考えてみなければならないという風に思うのです。ね。
 例えば御理解27節ですね、次の御理解を例えば頂いてみると、「昔からあの人は正直物じゃ神仏のような人じゃという者でも段々不孝な事が重なって世間ではどういうようなものであろうかというような事があろうが。何事、人に悪い事をせぬ正直者でも人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ」と。
 そういう風に頂いて参りますとですね、例えば人が良いとか人間が良いというのと神信心しておかげを受けるののは別と。それとは反対にあの人は根性者だと、言うなら世間ではろくそないというものでもです、神様に一心に向こうておかげを受けておるという事実は沢山あります。ですから、信心しておるから必ず仏様のような人だというのではないわけです。むしろそういう人のほうがですね悪に強ければまた善にも強いと言ったようなその一面を持っておるのです。
 むしろ、(?)人が(?)申しますよね。ですから私は金光様のご信心はそこら辺のところが二つが一つになっていくといったような信心がやはり必要ということになってくる。場合にはもういい、場合には穏やかであるというそれこそ、難しいものだと思うのですね今日の御理解を頂いて。
 もう、風の神と太陽のお話がありますよね。穏やかに日陰を暖かいものを投げかけてそして、旅人の衣を脱がすとか、ね、又は、その、風の神は強い風を送ってその旅人の上着を取ろうとしたけれども取れなかったと。けれども、その、そういうね風の神のような激しいその、ものがですね、やはり、信心の内容としているようですね。ただ穏やかであるおとなしいというだけではいけん。そういう人はですね、まあ確かに信心の修行はできないですね。穏やかな人は。ですから、そういういわば仏様のような神様のような人じゃという人がですそういう激しい面を自分にないものを発見してそういう欠けておるものを作っていこうというようなね、信心が必要ではないかと言う風に思う。
 これはね、ちょっと油断をするとね大変な事になるですよね。仏様のような人じゃ神様のような人じゃとまあいうなら穏やかな生き方で行くという人が信心になってまいりますとね、難しい事に間違っていくし一つは風の神のような勢いで神様に向こうていくというようなそれこそ誰が何というても、信心につれは要らぬという生き方で、行くということがですね、一つは怠り、一つは焦りといったような事になりかねないのです。
 ね。何かこう気がゆっくりした人、ゆっくりした人というか、そりゃもう信心ちゃもう、まあ、火の行や水の行じゃないとか、または、迷いばかりが信心じゃではないとか、というような言い方をする人。けれども信心とはやはり、一にも押し、二にも押し、三にも押しだと言う生き方の人。ね。だからその、実はどちらも本当なのですけれども、それが間違うと一つは怠り一つは焦りという事になるのです。その、焦燥とか焦りがね、その、神様に向かって一も押し二にも押しといくといったような形になって表れてくる場合。ね。信心ちゃちょっとその、御教えを守って今日はそんなに日参りお参りをしなくても良いという生き方も、なるほどそうなのですけれども、それがそのいわゆる、怠り、人間の弱点とでも申しましょうかね、やっぱり、朝早よ起きるよりかゆっくり寝ておるほうが良いしね、冷たい水をかぶったりするよりも、暖かいお湯の方が良いしね、ですからその辺が実にその実は難しいところのなのです、そこで私はね「信心に連れは要らぬ」という一人信心せよという、この御理解の最後のところに日に日に生きるが信心だと。これは大変厳しい事だと思いますよね。
 これは、たしか仏教の親鸞上人様の書かれた事の中の言葉だったでしょうかね、この「平生業成」という言葉があります。へいぜいというのは平生心、平たい生まれると書いてある。業は家業の行の業ですね、業という業、業が、業が、きついというような業。成というのは成就するの成。成るという字。親鸞上人のいわば、やはり生き方というのはやはり、まあこうだと思うのですよね。「平生業成」。実に穏やかなね、地獄はいちじょうの住みかといったような思想なんです。ね。自分のようなものは自分のようなつまらないものは自分のような罪悪人はとても極楽などには臨めない。恐らくはもう自分は地獄に落ちるだろうと。もういちじょうの住みかぞなし、というような風に言っておられるね。
 けれどもね、その地獄のなかとてもやはり如来様のお懐の中だというところに安心があるわけです。ね。安心立命というのはそういう事だと思う。どこにおっても、やはり阿弥陀如来様のお懐の中にあるのだというところに安心立命は受けられるものだとこう思うですね。ところが、それに、そういう信心によって、得られるおかげというのは何ていうかね、いうならばどうでもよいといったような心の状態。素晴らしい事だと思うですよね。信心によって、いわゆるどうでもよい、これ以上の事は望まない、そしてその、これの中に、仏恩を悟るというか神恩を知るというかね、そういう生き方なのです。
 そこにはね、それが本当な物になってくるときにです、そこには思い以上というか願いどうでもこうでもと願っておる、願っておかげを受けるよりももっと鮮やかなおかげになってくるという事実があります。ね。ですからね、今日私、安心と不動の信念といったようなものをね、まあ、そのことを頂いて私そういう風に感じましたから、感じたんですけれども、安心と不動の信念、これ以上望まんということ。又は、一つは絶対とするもの。神様の働きを絶対とするもの。そういう不動の信念が生じてくると言うためにはねやはり、今日私が頂いた、お不動様のやはり燃えるような炎の中にあっても断然としてその、座しておられるというような生き方の中から絶対と言えれる、言い切れるものが生まれてくる。
 ね。だからその、大体、安心と不動の信念というものは内容において同じようであるけれども、分かりやすくそういった意味でそんな風に申しましたわけですけれども、なら、絶対とは思うていない。自分はもう極楽行きなどとは思うていない。だから、極楽に行くなんては(?)いない。自分は恐らく、地獄に行く事であろう。地獄というのはもう自分の住処なのである、もう定まっておるとしておる生き方。どういう中にあってもそこから喜びを生み出していこうとする生き方。これ以上は臨まないという生き方。そこにいわばだから極楽を感じておるわけなのです。ね。地獄の中にこことてもやはり阿弥陀如来様のお心のお懐の中だと頂いておる生き方。だからね、そういうものがね、(?)そういうものが一つになっていっておるようなものを金光教の中に感じます。ね。教祖のご信心には。ね。
 ですから例えば27節にあるようにその正直者じゃからいわば馬鹿を見るということではない、仏様のような人神様のような人じゃというても次々難儀な事が起こってくると。どういうような事であるか。ね。それとは反対のような人でも信心しておかげを受けるのは別だとこういう。ですから正直者であり、神様のような人じゃ仏様のような人じゃという人がです、私は信心をしたらこれが一番最高のものになってくるのだと。ね。まあ、親鸞上人様を善人と致しましょうか。ね、もう自分では悪人と言っておられますけれどもね、なら、日蓮上人様を悪人と致しましょうかね、自分ではもう、悪人どころではない、善人ところではない、もうそれこそ、もう、自分は仏様の申し子のように自分で言うておられますよね。親鸞上人。お釈迦様が予言をしておられる。予言の中にある人物が日蓮自分自身だという風にまあ、ある意味あいでは思いあがった考え方をしておられる。ね。
 親鸞上人の場合はそれとは反対。もうそれこそ日本一の罪悪人だと自分で言っておられる。ね。ですから、けれどもその、親鸞上人をだから善人とし、日蓮上人様を悪人と致しましてもですね、なら悪人日蓮でもやはりおかげを頂いたというのは、不動の信念があったからです。ね。佐渡島に流される時にも大変な不運であったという。波が高かった。ね。そこでその、太陽に向かう、太陽じゃない、海原に向かってですね、南無妙法蓮華経、今から、ね、日蓮が佐渡島に移るんだと。こういうその波風が高いはずがないというわけなの。自分が行くのに。そこから例えばあの、波は平生になったと。ね。イタチの口の受難というですか、ね、いよいよ首を切られるといったようなときでもそれこそもう、微動だもしなかった、そこにああいう奇跡をよんで、その、(   ?   )厳しくなったというかね、まあ、伝説とも、本当の事だったと思いますけれどもね、そういう生き方から成るほど、日蓮の不動の信念が生まれた。決して日蓮が悪人というわけではないですよ、けれども、自分でいわば善人のような仏様のようにいうておるからそれを私は悪人だという風に申しました。ね。自分は日本一の大悪人だと言うておられる、親鸞上人様はだから反対に善人だとこう仮定してからです、ね、そこから両方のどういうものが生まれておるかと、結果においてはやはり、どちらにおいても助かっておられるという事。ね。
 そこで私は今日は例えば日蓮と親鸞が一つになったような生き方、日蓮を悪人とするならば、日蓮が一つ善人になり、ね、いうなら、正直者が信心しても正直者とか、また、あの人は仏様のような人神様のような人じゃというような人がです、いわば熱烈な信心をさせて頂くようになるところから生まれてくるところおかげ、安心と不動の信念がその、合いよってくる。ひとつの物になってくる。その内容はこれ以上のものは臨まんという生き方と、絶対とする生き方。ね。
 ただ、ここんところに問題になるものはです、例えば親鸞上人のような生き方になって参りました時にです、人間凡夫ですから楽な方を取る。いわゆる怠る事になるのです。穏やかな生き方の中にもね、いう事する事の間違いなからにゃよかという生き方になって、人間だから、どこに、お粗末ご無礼に出来てくるような事が分からない事にはきがつかないという生き方。日参りお参りせんでもと言うて、本当に家庭の業の中に行を行として行けれるならばまあそれもよかろうけれども、そこから段々、怠りのほうへ傾いていくという自分では気が付かないままに、これだけはどうでもこうでも頂かなければならんというような祈るような信心。信心からそれがね、ただそういう燃えるような心を神様に向けられるだけではなくて、それは、焦る心から。ね。信心に火がついたような感じであるから、神様に一生懸命向かっておるといったような事になったのではいけない。そういういわば信心を進めて行く上にですね、どちらも油断にはならない欠陥をあるわけなんです。ね。
 そこで本当にその金光大神の信心を身に付けていくという事は、もう、風の神と太陽の例をとりましたが、その両面をやはり持っておらなければならないという事ですね。やはり内容に。親鸞上人様と日蓮上人様が同居してござるといったような内容が信心にはいるという事ですね。
 これは、例えばですよ、私が修行中時分の時に一番まあ、ぎりぎりのどん底の生活というならばあの、4畳半の雨が降れば漏り、風が吹けば吹き飛ぶような家に住まわせて頂いておる。勿論畳もなかった。そういう家に住まわせて頂きながらね、もう、これ以上のものは本当に臨まなかったのです。私は。もういうならばですね、まあ両親に喜んでもらえれるようなおかげが頂けさえするならば、少しそれが向上してまいりまいしたら人が助かる事さへ出来ればというこの一念でした。もうどうでもよいという信心。ね。もう本当に私はこれ神様に申しましたことですけれども、これ以上の住まいを望もうと思いません。食べるのにもそうでしたね。もうとにかく一生間食をという事はもうそれこそ、一条の住みかと同じでした。地獄は。それで私は十分有り難いものを感じていたです。ね。これはもう、衣服だってそうでした。これ以上のものは着ろうとは思わない。(?)包まれようとも思わなかった。風呂などはもう一生入ろうなどとは夢思わなかったですね。私は。一生、履物を買おうとも思わなかった。布一寸買おうとも思わなかった。ね。そういう、例えばいうならばどうでもよいというものの中にですね、ところが絶対とするものがその中身にあったという事である。ね。これはどういう事かというと、絶対親孝行が出来るというもの。この生き方でいきゃ。絶対この生き方でいきゃ人が助かるという事。だからその今日、私が言うておるいわばその理想的なものだったという事ですよね。どうでもよい。 それを自分自身の家にはどうでもよかった。これ以上の家に住もうとは思わなかった。けれども、段々段々住まわせずにはおかん、良い家に住まわせずにはおかんという働きがそういう心の状態には伴うてくるという、お風呂なんかでもね、もうそれこそ、一生入ろう等とは思わなかった。風呂おきのお供えなんかきた時にはもう自分が入るためとは思わなかった。
 ところが、その前でしたね、タオルがどんどんお供えがきますし石鹸がお供えにきますね。最後にちょっと風呂おけがきたのです。ね。そういうおかげを頂いた時に神様の風呂の桶のお供えがきたときに、お届けをさせて頂いたら今日から風呂に入ることを頂いた。これはどうでもこうでもという働きじゃった。もうそれこそ、風呂の淵にしがみついてから、その、感動致しました事がございます。ね。なら、もう、家でもそうです。そういういうなら今から言うならば、破れ家ですよね。しかも四畳半。雨がふりゃもう、といったようなうちが段々段々椛目の時代から合楽の時代、それこそ人が御殿のようだというようなお家に住まわせて頂くようなうちになってきた。自分が一つも望んでいなかった。求めていない。ね。けれどもその内容にしかし絶対のものがあった。それは絶対私が親孝行出来る事ならなければ親は死ぬという事がないという思いがあったのですね。いうならば、分かりやすくいうならば、私が儲けだすまでは親は元気しておる。私が本当に孝行できるまではといったような、その当時ですね、金光様の先生になろうとなんて思いもつかない時分です。そういう修行をさせて頂いておってもやはり、商売で立たせてくださると思うておったから。いわゆる、私が儲け出すまでは親は死ぬるような事はないと。これは絶対のもの。ね。それが段々、いわゆる高尚になってまいりましたら、ね、この生き方でいけば必ず人が助かると言う事。これは絶対のものなのだ。
 だからこれ以上は臨まんというものと絶対というものがですねその、信心の内容になからなければならないという事。それをまあ、分かりやすくする為に親鸞を出したり日蓮を引っ張ってきたわけなんですけれどもね、決して今日私が申しましたような親鸞様、日蓮様でもそういう信心のお粗末なものじゃなかったけれども、まあ分かりやすくするためにまあ、誰が善人、彼が悪人といったような風に申しましたけれどもです、ね、いわば、親鸞上人が通られた、平生業成という事。ね。
 それこそ、どうでもよいというような心の状態で、おありになった中からあのような道が開け、日蓮様の仰るようにです、ね、自分はお釈迦様の生まれ変わりのようにいわば、いわゆる何というですかね、自身過剰とでも申しましょうかある意味では。けれどもその、自信過剰と思われる程しのものがです、生んだのはですあの、火が出るようなご修行の中からそういうものが生まれてくるという、そして、現在の日蓮宗が生まれたということにもなるわけなのです。
 ね。ですからどちらにかたよってもならない。その、その内容とするところがです、一つ、中身にはこれ以上の事は望まないと言う事は自分自身の事にして、ね、これが他の方へまわった場合では、それは絶対の物として頂けれる安心と不動の信念が生まれてくる。そういうところをです、今日は大体二十六節を頂きましたから、信心に連れはいらぬ。それこそ誰がなんというてもという生き方。同時に、二十七節から引用いたしましたですね。仏様のような人じゃ神様のような人じゃというような人がです、ね、一度信心の炎が燃えてくるようになったら、いよいよ鬼に金棒だという事です。ね。私共の信心がこれでよいと言うことでは決してありませんけれども、私の内容には何かそういう物を私自身感じます。いつも。激しい時には本当に燃え盛るようなものを自分の心の中に感じます。誰が何といったようなものを。
 ね。かと思うとですこれ以上のものは絶対に臨もうと思わない。とする生き方、これが一番、まあ具体的にですね、皆さんが、なら新しい事からで申しますと、幹三郎の病気の時です、この時にこの二つの内容が私の中にあったのです。ね。絶対とするもの、同時にどうでも良いというもの。ですからそういうものがですね、私共の内容にあって信心が育っていくという事に、金光大神の信心はそういうようなものを感じますよね。だからこれがね、間違うとです、大変な事になるという事。それを言葉でここに書いて見ますと、一つを怠り、一つはあせるという事になるのです。ね。怠って折る事がいかにも、お参りしない事がゆっくりしておることがいかにも穏やかと間違えて折る場合がある。
 自分はあせって毎日参りよるばってん、火の出るごたる修行をしよると思いよるばってんそれはあせっておるから、そうであるといったような事になるのです。だからその辺のところをですね、怠りではないか焦りではないかと、検討させて頂きながらです、まあ今日頂きますようなところを頂かせてもろうて、今日私がお知らせを頂きました、お不動様の炎のないお不動様というような事をね、だから今なら、私共はこの炎のようなものをね、必要ではないかと思うですね。信心に連れは要らぬ。誰が何と言うてもと、一途に神様に向かうていくというような信心。ね。その内容としてです、これ以上のものはないといったようなものを、育ってくればいよいよ有り難いわけです。(?)おかげ頂かなんならんけん一生懸命参ってきよるとですよいう人が多いわけなんです。言うならば。ですからそれも良いけれども、それがなら、焦りであってはならないという事。この辺のところをね検討させて頂きながらね、信心を進めていかなければならないと思いますね。
                                    どうぞ